多様性という装置

 昨今、多様性の重視という思想が蔓延っている。なぜマイノリティの尊重はなぜ必要とされるにいたったのか。人類の血塗られた歴史から我々は学習し、高尚な精神を手に入れたからか?

 有史以来人類は、強者を強者のまま維持する装置を研究してきた。王権神授であったり、武力であったり、民意であったり、資本主義であったり…さまざまな装置を発明し、それを活用してきた。多様性の尊重とは、それら装置の一種に過ぎない。

 地上で言えば人類は強者だ。例えば未知の病、ウィルス、環境の変化、これらへの適応は何を因子に解決するかわからない。ダニや寄生虫、雀が人類に快適な環境づくりに貢献していることもある。人類の食糧であるコメを盗み食う雀を駆除したならば、回り回ってコメが不作になることがある。菌類からペニシリンを生成したこともある。栄養学が脚気という病気(とされた)を治すことも、家畜の食べ物が海の男たちを救ったこともある。そのほかさまざまな経験から地上の強者である人類は今ある快適な環境を構成する要素を保存することをよしとし、保存することの根源的な力を多様性と名付けた。人類が滅ぶことになるほどの多様性を人類は許容するだろうか?多様性は現環境への恒常性に支配されている。恒常性を目的とした多様性が我々人類が呼称する多様性なのだ。

 多様性とはつまり有史以来繰り返される強者維持装置である。そのため蔓延っている。したがって全てに適用される原理ではない。強者維持を目的としない場合は、その効力を失う。この認識の齟齬が、弱者の不満を募らせる原因となる。